日本では、フランス料理店で戸惑うことなく料理の注文ができ、ワインの知識をもち、物怖じせずに英語を話せることが国際人の資格だと考えられている。
しかしそれはおかしな考えで、私には、上司のヴィクラマディティヤ氏が言っていたジェントルマンとしての美徳、「正義」「判断力」「批評能力」の方がより重要で肝要だと思われる。だが、これらの要素は彼らの「国際人としての資格」からまったく抜け落ちているのである。

戦前までの日本人は、師や他人に対してはもちろん、我が子に対しても礼儀を重んじていた。その古い人格主義は、儒教大乗仏教の影響によるものといい、一言で言えば、それは相互に尽くし合うこと、互いに相手を慮ることで「親愛感情の相乗効果」を引き出し、すべての人々を「義兄弟」として結ぶものだった。
歴史的な価値観の中で育っていた民主教育の担い手たちは、十分な環境ととびっきりの自由を子どもたちに与えれば、これまで以上に優秀で人間的で自主性のある子どもが育つと信じた。
戦前ならばたしかに、この慈愛に満ちた師弟感や親子間の営みによって、子どもは『恩愛」の受け手となり、社会全体に敷衍できる秩序の原理を習得しただろうという。
しかし戦後の民主教育は、子どもたちを「メニューの中から好みによってものを選ぶ人間」に育て、親や教師をその提供者と見なさせた。心地良いことを選ぶことが正しいという教育は、身勝手だと他人から思われない程度に親の世話をし、財産を相続するという子どもたちを育てた。

日本では古い時代の価値観である「与える→感謝する」という図式が、戦後「選ぶ→心地よく感ずる」という自己偏愛的な感情世界に帰一してしまい、親の愛や社会の愛をみえないものにし、教育は「満足を得ることが人間の権利である」と教えることになってしまったのだという。

「相互主体的に選り好みをすることが人間性の育成につながる」という教育は、およそ民主とはほど遠く、「我主」とでも呼ぶべきものだったことになるが、このような思想が戦後の日本で人間性を恢復するルネサンス的な中心思想となって、歴史的な価値観をことごとく打ち払い、結婚の形式だけでなくさまざまな面で、想像をはるかにこえる複合的病禍を生んだらしい。

たとえばここに数本の、それぞれちがったデザインの鉛筆があるとする。
戦前の教育では、親や教師はそのなかの一本を選んで、「これを君にあげよう」といって子どもに与えた。ところが戦後の教育では、すべての鉛筆を見せて「欲しいのを自分で選びなさい」と子どもを促した。子どもの人格を尊重したかに見えるこの教育方法はしかし、結果として「君の欲望のままにしなさい、君が気持ちよく感じる方を選びなさい。それが民主主義です」と教えたにすぎなかったというのである。

『喪失の国、日本』M・K・シャルマ(P168)

あまりにも平和だが、かといって幸福ではないために、生きている感覚を掴みにくくなった人たちが、死や、恐怖や、愛や、幸福といった、人生において最も価値あるものを「遊び」にしはじめたのであろうか。
もし、そうならば、近未来において、愛や憎しみさえもゲーム機の中に登場し、人々はリスクを負うことのない擬似的な世界で結婚や育児や離婚の感情を楽しむようになるかもしれない

転倒

小雨の降る中、自転車に子供二人を乗せ保育園に送り届けた後、あせりながら自転車を駐輪場に停めツッカケ状態で小走りをしたところ靴底が濡れた地面ですべってものの見事に転倒した。
あぁ、まるっきりおっさんだ。おっさんだ。おっさんだ。おれはおっさんだ〜。
と思いました。

twitterで話題になりアーカイブされるものとそうならずに流れていく情報がある。その話題に反応してつぶやくユーザーと決してそうしないユーザーがいる。これは海馬の作用と似ているのではないか。
そう考えるとtwitterにアカウントを持ちながらつぶやくこともしない人たちというのはほとんど活用されないといわれる脳細胞(約90%?)にあたるわけだ。
多分それらの脳細胞たちも「twitter?よくわかんないよ」とかいってる人と同様「シナプス?よくわかんないよ」と思ってるのではないか。
「脳細胞」というとどれも没個性で意思などないように思っているが実はそうでなくそれぞれの細胞にも人間と同じように好き嫌い(心地良いものと不快なもの)があるのだろう。
すべてものがひとつの価値に向かって作用しているわけではないのだからそれらの細胞たちが活用されないことについて無駄だとは言えない。それらものもはそういうものとしてそういう割合で存在するのだから。

グーグルは神でもなければ悪魔でもないし、グーグルプレックスに闇があるとしても、それは誇大妄想でしかないだろう。この企業の創業者について憂慮すべき点は、人間を上回る思考能力を持った、驚異的にクールな機械を作りたいという彼らの少年のような欲望ではなく、そのような欲望を生み出した人間の精神についての彼らの偏狭なイメージなのである。

『ネット・バカ』