ゴーガンの村

この八月の末頃、ムシャクシャしたので、東京を去って、ヨセから相模川に大体沿って走っている旧甲州街道を東京の方へとブラブラ下って歩いた。太陽は勿論未だ熱かったが、風が汗ばんだシャツに触れると秋のことを思った。
何処まで行くつもりか、まだ定まっていない。東京を出るときはヨセから宮ヶ瀬まで歩いて、それからバスに乗ってアツギまで出ることもよいと思い、そのつもりで大体歩いていた。ところがどうしてもそのコースは遠すぎて、宮ヶ瀬で留まる必要があり、都合が悪い。どうしようかと考えながら歩いている。スアラシという石器時代の住居跡で有名な村が街道にあるが、その村を過ぎて、下り坂にかかると、そこへその辺りの少年が自転車に乗って来た。僕のコースが有望か否かを念のため聞いてみた。「遠すぎるネーエーエ」と神奈川県一流のアクセントで答えが来た。膝を屈して、この少年に教えを乞うた時、「この下の村から舟を浮かべて下るも亦一興ならん。アラカワに着きたれば、直にバスに乗り、八王子に至れば、日くるる前に東京につくこと請負うべし」というような意味をこの少年が親切に土地の言葉で教えてくれた。そしてこの少年は指をもって、下の谷間を示し「あのタカネを下って行くと川辺りの村にでるネーエーエ」
蝙蝠傘の先で繁っている枝を押しわけて街道のすぐ脇から下へくだって行った。僕は以前から東京の人は誰も知らないで東京からあまり遠くない、かくれた村(村というよりも、土人的な集落)をさがしていたのだ。
村へ降りてみる、至るところで多くの大人子供が笑っている。道端には鉛管で水が引かれている。この村は街道からみると殆んど気づかぬ程のものであるが、実は非常に美しいカーブをもった谷が湾をなしている。樹木と草花と水流、白い砂地、土地の子供の裸の色などは、どうしてもゴーガンの絵に出ているタヒチーの村である。特に渓流の岸は海岸と等しく、砂の堆積で、一つの砂丘を形成し、エノキや、南洋でなければないような樹が繁り、紫の影を投げている。
そこは相模川とが合流して実に美しい地域をなしていた。
その村の一端から舟に乗って、三円出して、荒川まで下った。その途中は実に漢詩的な情緒に溢れていた。水が苔と草根を洗って静かに流れている。舟の中で横たわってみていると、なんとも言えない不思議な感覚を感じるのであった。僕の舟はアユ釣り舟の邪魔をしながら下ったが、その人達には大変迷惑なことであったに違いない。
東京へ戻って、その美しい村で、何とかして家を借りるか、建てるかしてみたいと考えた。その計画も夏の日のだるき夢の如くいつの間にか消えてしまった。

(昭和十一年十月「句帖」)