おはようございます!
子どもが歩いて保育園に行けるようになりました。
少しずつですが、毎日毎日成長していることが実感できます。
でも、彼は成長しようと思って成長しているわけではないですし、親の期待に応えようと頑張っているわけでもありません。ましてや、将来こうなろう、ああなってやろうなどとは思ってたりするはずもありません。気に入らないことがあればすぐに思い切り泣きますし、楽しければ(周囲からは何が楽しいのか全くわかりませんが)思い切り楽しそうにします。親からするとやって欲しくないようなこともいっぱいしますし、調子に乗ってすっころんで痛い目にあったりの繰り返しです。その一方でコップで水を飲めるようになり、スプーンでものをすくって食べられるようになったり、遊んだもののお片付をしてくれたりとうれしいこともできるようになってきます。多分そういうことは必要だから身についていくのだと思います。必要なことを身につけられる、それが人間の能力なのでしょう。些細なことでもそれができるようになることはできなかった時期から想像するとほとんど奇跡のようにも感じられます。
だれもが同じように通る道ですし、ほんとに些細なことですが、今までとは違ったものの見方ができるということでとても大切な経験をさせてもらっていると思います。
人間には何十万年という歴史があって、その中で身につけてきた知恵があると思います。その知恵を取り戻そうという試みが中沢新一のやっていることだと思います(最近白川静の「漢字」を読んだら同じことが書いてあったので漢字ってとてつもなく大切なものだななどと見直したのでした)。
で、今一番はまっているのが落語です。きっかけは志ん生の「子別れ」で、志ん朝の「文七元結」とか聞いて涙しております。同じ話が演者によってまったく違う噺に聞こえたりするのに感心したり、まさに出会いです。人情話なんて以前はまったく聞く気になりませんでしたが、今は面白く聞けるのです。志ん朝の次は馬生の予定です。
人は年齢や環境によってどんどん変わって行きます。変わろうと思わなくても変わっていきます。その一方で変えられない自分もいます。結局、なりたい自分になれることはありません。
以前、引用した蓮実重彦のインタビューの言葉を改めて思い起こすのです。老いていく中で身につけた大切なものの基準の変化です。
生きているということはすべての文脈を完全に理解して、その文脈のなかで自分で結論を出すのではなく、なにか不気味な夕焼けの赤さであるとか、なんでもいいから掴まえたら、それに心を動かされる自分自身を追い詰めていけばいいと思っていますし、そのようにしてわたくし自身、生きてまいりました。ですから、それこそ、不意に向こうから差してくる日射しであるとか、急にあたりに立ち騒ぐ風と同じようなものとして、僕の言葉の断片を捉えていただければいいんじゃないでしょうか? それが正しい正しくないは別として、そういうことは世のなかには起こるんですから。
名工矩随もいいです。
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つまりそれは言葉でなく自分の直感を信じるということだと思うのです。言葉では捕らえられない何ものかに遭遇したとき、それと直截に触れ合えること。それを言葉にできるのは詩人のみである。
エウメロスは九十になるまで、モチと竿とで、鳥をとつて生きた。死んだとき子供にモチと竿と、網をのこしていつた。
常に男らしいことをみせつけていたクセノクラテスはある日真鍮の釜にぶつかつたとき、オーといつて死んだ
多神教の時代に一神教を考えた人はロマンチストであるという指摘ができることとクリスマスを多神教の時代からの祭りだと指摘できることは全く別の資質なのです。
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